伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった仙台の忍者の集団を調べています。今日は昨日少し考えた部分からの続きで、鹿股戸兵衛からの桜田玄蕃について調べるため、ネットから見られる範囲で資料を読んでいます。
・迫城~舘ノ山城
・データベースサイト
・宇和島伊達家文書「戊」
・まとめ
迫城~舘ノ山城
宮城県南の角田、舘ノ山城の桜田玄蕃の居城跡の写真を見ることができる。
さくらとおしろ-宮城県角田市
Sakura and Castle さんのサイトより
宮城県南の角田、舘ノ山城の居城跡の写真を見ることができる。人取橋合戦、摺上原合戦にも行っている。
データベースサイト
かなり詳細なデータベースサイトを見つけた。
宇和島伊達家文書・桜田家文書目録データベース
今日の引用はすべてこちらのHPから行っています。
桜田家に関するものも、あった。
1-b. 宇和島市立伊達博物館所蔵 桜田家文書(全 544点)
宇和島伊達家文書「戊」について
6. 検索可能な資料の目録について(解説)
a. 宇和島伊達家文書「戊」について
「第二次世界大戦まで東京の伊達家旧藩邸の伊達家家記編纂所に保存されていた。東京での戦火が激しくなったため、この史料群は宇和島へ疎開させるべく国鉄汐留駅で貨車に積み込まれた。しかし駅が空襲にあってしまい、史料群も焼失したと思われていたが、奇跡的に罹災から免れ、その後宇和島へ疎開させられたのであった。宇和島では未整理のまま長持ち四棹に入れて保管されてきたものである。」
という史料である。はじめは東京で保存されていた史料だったようだ。
「戊」の特徴
「戊」は、「実は伊達家の文書だけでなく、相当数の家老桜田家(注)の文書(以下「桜田家文書」とする)(保存会注 伊達博物館所蔵の桜田家文書とは異なることに注意。区別については(注)を参照のこと)を含み、この両者が渾然一体となっている。
桜田家文書には「桜田」と読める黒印が押されている場合が多いが、この印が押されていなくても内容面や人名等から伊達家文書でなく、桜田家文書と判断されるケースもある。またいずれに属した文書か判断に迷うケースも多い。こうして今回の史料群は、それを伊達家文書、桜田家文書と区分することはせず、一括して伊達家文書として扱わざるを得なかった。
とあった。つまり桜田家文書には2つあり、ひとつは伊達博物館所蔵の桜田家文書、もうひとつは宇和島伊達家文書「戊」ということなのだろうと思う。
まとめ
この史料も見て確認したいと思うが、リンク先がデータベースの入力でタイムアウトになった。別な日にまた試すか、他に方法がないか、いずれにしても読んでみたいと思う。