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黒脛巾組の鹿又戸兵衛・墓碑

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黒脛巾組の鹿又戸兵衛・墓碑

伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった忍者の集団を調べています。鹿又戸兵衛についての続きです。

・鹿又戸兵衛とは
・お墓が残っている
・行ってきました
・最後に

 

鹿又戸兵衛とは

昨日のこちらの投稿で書いたとおりです。

鹿又戸兵衛の東原神社

おそらく、仙台市内に今、わかる形で黒脛巾組としての何かが残っているのは、鹿又戸兵衛のみです。

「大阪冬の陣のとき、政宗は当時上杉領だった会津を攻めたが、この時戸兵衛は間謀長(黒はばき組を指揮した隠密隊長)として戦功をあげ、後に政宗から300石を賜った。ところが知行地が飛び飛びであったため住む場所が定まらなかった。政宗が死んで数年後忠宗が鈎取に出猟したとき戸兵衛も従っていた。山裾にきたとき忠宗は扇を掲げて一望の荒野を戸兵衛に与えたという。(中略)紙漉山、金剛沢などは猟場であったため、杉土手の策を進言したのは戸兵衛か、長男の勘太郎であるといわれている。」

-西多賀探訪記第4号

 

お墓が残っている

神社は現在ないけれども、墓碑についてはまだ残っていると書かれています。

「神社の西約100mの所に鹿股戸兵衛の墓碑が建っている。表面には「播磨十六代之孫 鹿股戸兵衛の墓」と記されている。

-西多賀探訪記第4号

このように残っておりました!

 

行ってきました

墓碑は宅地部分の奥のほうに位置していました。戸兵衛か、長男の勘太郎が進言したとされる杉土手の名残が少し感じられるところです。

杉土手とは

また、向って左側には戸兵衛のお父上のものと思われる墓碑もありました。

■最後に

今回この墓碑については仙台市西多賀市民センターのS様、西多賀歴史探訪会のG様のご協力をいただきたどりつくことができました。また周辺の地域の歴史についても、お話をうかがわせていただき、参考になりました。大変ありがとうございました。

 

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