伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった忍者の集団を調べています。今回はツートップのうちの1人、鹿又戸兵衛。
・鹿又戸兵衛とは
・西多賀かるた
・東原神社
・現地に行ってみた
・まとめ
鹿又戸兵衛とは
以前こちらの回で見たように、伊達秘鑑という本に出てきます。
2017年11月、黒脛巾組の神社が近隣住民に知らせなく更地にされたということがネットニュースでかなり話題になりました。私も去年ぐらいから忍者を調べはじめているため、このことではじめて太白区にそんな由来の神社があったことを知りました。
西多賀かるた
「く」黒脛巾つけて活躍 鹿又戸兵衛
鹿又戸兵衛が率いて「大阪の陣」で活躍した軍団は黒革の脛当てを巻いていたことから、黒脛巾組と呼ばれました。また隠密集団ともいわれていました。伊達家二代藩主忠宗公の時、鈎取東原に知行地を賜りました。戸兵衛の子孫である元仙台市長鹿又武三郎氏によって戸兵衛大明神の社が建立されました。
というかるたがあります。これは 西多賀今昔かるたマップ というかるたの中のひとつで、西多賀検定委員会(平成28年度)に作成されたものです。実物は持っていないのですがかるたのもとの全体像はこのようになっています。
-西多賀検定委員会(平成28年度)
西多賀検定委員会では毎年1月に『西多賀今昔かるた大会』を開催しており、このかるたは、ふるさと西多賀の今昔について知っていただき、後々まで伝えていきたいという思いで、西多賀検定委員会が作ったもので、西多賀市民センターでは、毎年、西多賀検定委員会・西多賀児童館との共催で、小学生を対象にかるた大会を実施しているとのことです。楽しく知れて、これは良いですね~。
こちらのサイトには、かるたについての詳細が紹介されていました。
西多賀今昔かるた:Mikamine Heartful Shop
東原神社
別名、戸兵衛大明神。今日現在でもGoogle map に出てきます。2016年8月に撮られたと思われる何枚かの写真が見られるのでGoogle mapのものを貼っておきます。現在は、神社はありません。
西多賀歴史探訪会編「西多賀探訪記第4号」によれば、
西多賀四丁目の高台にある小さな神社で、鹿股戸兵衛を祀る。正面には、「押廟両社大明、鹿股戸兵衛大明神」の額が掲げられている」と書かれています。また、
山田鈎取まち物語製作委員会編「山田鈎取まち物語」には、
西多賀四丁目は、町名が変更される前まで「鈎取字名主」であった。”名主”の名は、鹿股戸兵衛に由来するものと思われる。相馬で父九郎兵衛が戦死しお家は断絶となったが、戸兵衛は、藩祖伊達政宗時代の活躍が認められ、二代藩主忠宗から知行地を拝領、お家再興も許されて"名を召した"ことによるものか。また、鹿又家家臣団の出で立ちが、動物の皮を鞣した黒い脛巾をしていたことから、"鞣し"→"名召"となったものか。(中略)現在は後田川沿いにある「名召公園」にその名が残るのみである。※八重樫允雄著『地域を歩く』参照、とありました。
現地に行ってみた
仙台市営地下鉄南北線に乗り、行ってきました。長町南駅で降りてそこから10分ほどバスに乗ります。その後、15分ぐらい歩きました。ただ実はこの時は降りるバス停を少し間違えていて、もっと近くで降りればもっとすぐだったことが後からわかりました。帰りは歩いて長町南まで行けました。駅にはレンタル自転車のダテバイクがあったので、自転車を借りたら便利かもしれません。(坂だけど・・・)
西多賀四丁目で降りるのが正しかったでした
神社はここの位置ではありませんが、高台です
かなり広い面積で近隣の緑地が保存されています。
まとめ
神社があった場所はかなり急で、細い道路が続く坂の上にあり、遠くまで良く見えて見晴らしが良い場所だからこの場所にしたんだろうなあ。と思いました。あまり資料がないと言われている黒脛巾組なので、もう少しいろいろと今後も調べていきたい場所です。
今度読むリスト
八重樫允雄著『地域を歩く』