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気仙沼左近は仮名なのか

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気仙沼左近は仮名なのか

伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった仙台の忍者の集団を調べています。気仙沼にゆかりのある気仙沼左近について考えます。

・左近と左近衛府
・伊達武徳違聞録
・米倉家の菩提寺・峰仙寺
・まとめ

 

左近と左近衛府

よくありそうな名前だったので、少し調べてみました。左近というのは左近衛府や右近衛府のことで現代の官庁のことで、その後に少将や将監の官名が付けば、左近少将(将監)とか右近将監(少将)と呼ばれる官職となるが、官位は略語であるともいえる。例えば石田三成の右腕として活躍した島左近などは左近将監でも左近少将でもなく、官職に任官した訳ではない。このように官庁名だけを称することを仮名と呼ぶようです。

令外(りょうげ)の官。大同2年(807)近衛府(このえふ)を改称したもの。右近衛府とともに宮中の警固、行幸の警備にあたった。左近司(さこんのつかさ)。左近衛。⇔右近衛府。
デジタル大辞泉  より

令外の官についても、復習・・・。

令に定められた以外の官職・官庁。大宝令または養老令の制定後に設置された官で、内大臣・中納言・参議・蔵人所・検非違使(けびいし)・按察使(あぜち)・征夷大将軍など。

 

伊達武徳違聞録

老人伝聞記の他、伊達武徳違聞録に気仙沼左近の記載があるとのことで伊達武徳違聞録を見ていたら、このページにいきあたったのですが。国文学研究資料館のもののようだけど、何の本なのかはわからない。

https://kotenseki.nijl.ac.jp/page/kokusho5-7.pdf

P.559下段に、伊達武徳違聞録の記載あり。仙台叢書の10とあったがネットでは見られないようだった。残念。あらためてこうして見ると、伊達の文書はやっぱりいろいろな県に所蔵があるのだなあという印象。

 

米倉家の菩提寺・峰仙寺

宮城の旅
峰仙寺は天平9年(1354)葛西氏の家臣米倉持村の創建と伝えられている寺で、代々米倉家の菩提寺であります。とある。年代はずっと前だけど、1590年の米倉左近将監持長は子孫だろうから、関連がありそうなのでは。

津谷館
こちらには沿革が書いてある文書(津谷村風土記書上、峰仙寺縁起)の記載がありました。

春の夜の夢
津谷館について、「葛西氏の家臣としてこの地に勢威を振るい、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で葛西氏が改易になると没落した。また、堀の規模・構造は戦国大名の北条・武田の城並みの豪壮なもので、地方勢力の構築にしては大き過ぎる。地方豪族の権力というものを考察する上でも興味深い城である。」との記載があった。かなり立派な堀なのだろうと思われる。

 

まとめ

気仙沼左近が誰だったのか、まだ不明な部分はあるもののその土地の有力者や武芸に秀でた者という説明書きがされているので、それにあてはまりそうな人がいないかを本吉北方、気仙沼の地域からの城で見ていこうと思ったのですが、なかなか複雑です。ただ、米倉左近将監持長は、城の規模から、地方豪族としての権力をかなり持っていたと考えられます。

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