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「白鳥・鷹と鍛冶」の文献

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「白鳥・鷹と鍛冶」の文献

伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった仙台の忍者の集団を調べています。今日は昨日まで読んだ刈田郡誌を調べていた時にひっかかった文献について。


・著者は誰
・忍者との関係(予想)
・書いてあったこと
・まとめ


著者は誰

福田晃氏。リンク先のURLが取れないので詳細がわからないがritsumei.ac.jpなので立命館かもしれない。見てみたらあった。



その文献はこちら↓ から見られました。
民俗学者、専門は説話文学とある。『放鷹文化と社寺縁起 白鳥・鷹・鍛冶』三弥井書店 2016 の著作があるので、これは抜粋版か何かなのではないかと思う。
思うに、建物や文書、家系図が残っている(見つかった)地域は別として、あまり活動の証拠を残さなかった忍びの者については証拠であるモノがない。必然的に残っている足跡を探すのは難しくなるけれども、説話や伝承というカテゴリーでの研究報告は意外とあることがわかる。創作でもなく古記録でもない、作品郡を称して説話と言うようなのだが、東北地方においての説話もこういった研究の中に見つけることができる。

忍者との関係(予想)

説話に直接、忍者が出てきたわけではない。しかし福田氏の著書リストの中に、共編著として『甲賀忍者軍団と真田幸村の原像 甲賀三郎[物語を歩く』編著 三弥井書店 2016 というものもあった。関係があるかどうかわからないけれども、全く説話カテゴリーと関係ないというものでもなさそうだと思った。

書いてあったこと

鹿股戸兵衛は忠宗時代(政宗の子供)に大阪の陣の功績を称えられ、知行地として現仙台市の東原地区一帯を拝領したと西多賀探訪記に書かれている。この部分は今確認できないので、近く別にきちんと書きたいと思うが、その地で鷹狩りをしたという言葉が書かれていた。そのため、この『放鷹文化と社寺縁起 白鳥・鷹・鍛冶』に、少し鷹狩りについての一般的なバックグラウンドが書かれていないだろうか。と思って読んでみた。
この文献では同じ事象が書いてあるものを別な本の表記で比較し違いの詳細を分析していたり、P9に示されるように
その具体的資料は、戦国時代にまで下る。それは山名隆弘氏が「伊達政宗の鷹と鷹狩 ㉕ 」にあげられるが、それによると政宗は国元における鷹場としては「白石より仙台への道通」にあったという。またその「道通」でも、白鳥は白石では鉄砲で打たず鷹で合わせよと命じている。それは寛永二年〔一六二五〕五月吉日付の書状によるものであるが、それに先立つ慶長十三年〔一六〇八〕付の書状によると、白鳥は念を入れてとらえること、近ごろ苅田・柴田の白鳥が少なくなっているから、「鳥の法度」を出して策を講じよと命じている。また、政宗の重臣・片倉小十郎景綱に始まる白石藩も、当地域を鷹場としてしばしば鷹狩を試みていたようである。たとえば、『片倉代々記 ㉖ 』によると、五代藩主・村休は、享保二年〔一七一七〕三月廿日、白石川の支流・斉川において鷭(バン)の鷹狩を催している。また六代藩主・村信(宮床伊達家当主)は、享保九年〔一七二四〕四月廿一日、白石を通る時に宮駅に休息、「白石河原より鶉御鷹野」を営ませている。僅かな記録で、その実態は詳しくは知り得ないが、白鳥を追う鷹狩は催されてはいなかったようである。それは、政宗がやがて当地域の白鳥を禁鳥とする施政をとったからである。
とあった。1608年は大阪の陣の戦い(1615年)と年代が近い。鹿股戸兵衛は東原だったので刈田・柴田より北の地域であり、行っていたのは白鳥を追っていた鷹狩りではなかったようだが、詳細に関しては今のところ不明である。

まとめ

戦国時代においての白鳥に関する法度については初めて知ることができた。今わかっている少量の情報と合わせて、何らかの仮説ができればいいと思うのですがもう少し厚みがほしいところです。今回はメモとして書いておきます。

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