伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった仙台の忍者の集団を調べています。気仙沼にゆかりのある気仙沼左近から、近い部分をわかる部分で調べてみました。
・忍館城跡
・熊谷伯耆
・気仙沼熊谷氏
・まとめ
忍館城跡
忍館城跡が誰の城だったかについては、熊谷伯耆か、千葉信濃の可能性が高いとわかった。
熊谷伯耆については 奥羽古城散策 さんのサイトに記載があったので、こちらを見てみます。
熊谷伯耆
【熊谷直良】 くまがい なおよし
気仙沼熊谷氏16代目。熊谷直正の嫡男。伯耆と称する。1578年に月館の熊谷直澄が反旗を翻した「松川の戦い」で、直良は直澄に野戦で敗れて自刃して果てた。
奥羽古城散策より
気仙沼熊谷氏
上記の奥羽古城散策の記事によれば、「南北朝時代には葛西氏と激しく戦ったが、1363年には葛西氏に降って以後は臣従することになった。その後、熊谷氏は葛西氏の熊谷党として大崎氏などとの戦いに参加しているが、1533年に葛西氏に嫌疑を掛けられて当主の直景が誅殺されている。以後は長崎を本拠地とする長崎熊谷氏が宗家となった。後に月館熊谷氏によって内訌に終止符が打たれるが、1590年の奥州仕置きで没落した。」とあった。
また、以下のように最後の代では、その後伊達氏の家臣となったと記載があった。
「【熊谷直長】 くまがい なおなが
気仙沼熊谷氏18代目。馬籠(千葉)新右衛門の二男で、直資の養子となる。掃部頭と称する。1588年の「浜田広綱の乱」では葛西軍の主力として篠嶺の麓に陣を張り、南下してきた鹿折信濃を主将とする浜田軍の一翼を撃破している。1590年に葛西氏が奥州仕置きで没落した後は津谷に隠遁したが、後に伊達氏の家臣となった。」
まとめ
気仙沼熊谷氏のあとは長崎熊谷氏が台頭してきたようです。いずれも、葛西氏に仕えていたが、1590年の奥州仕置きで没落しているという部分が、津谷舘の米倉左近将監持長と共通していると考えられます。黒脛巾としたと書いてあるものはないけど、1590年前後で伊達との繋がりが生まれ、役割を受けて活躍した可能性は高いと思われます。鹿又戸兵衛の墓も存在していることから、気仙沼左近についても実際にいた人物だったのではないでしょうか。