伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった仙台の忍者の集団および地域の忍者を調べています。今日は先日、宮城県図書館で借りてきた宮城県史25を途中まで読んでいる経過です。今日はその5。
・ここまで読んだ
・今回気になった部分
・栗原郡とは
・最後に
ここまで読んだ
今回読めたのは、585/820頁です。まだ栗原郡が続きます。かなりたくさんの分量があります。残りの左側がだんだん薄くなってきました!嬉
今回気になった部分
今回も特に忍びの記載は出てきませんでした。ですが、せっかく読んだので今日読んだ中に書いてあった地域の中でのキーワードをピックアップしてみます。
栗原郡金成村風土記御用書出
564頁:
栗原郡三迫金成村[提出者記名なし]栗原郡金成村上町 佐々木里衛氏所蔵
金成村
一 村名ニ付由来 当村往古ハ吾勝郷三迫金田里と申当郡金田壮之出郷ニ有之候由申傳候当時隣村畑村ニ住居仕候炭焼藤太黄金を掘出京都江献候ニ付村名を被下置久安年中金生村と罷成候由中古ハ神成村と文字相認候処・・
の記述があり、炭焼藤太のことが書かれていました。
炭焼藤太とは
奥州産金開発とともに平泉藤原氏が奥州平泉に権力を持っていた頃、金成の畑村に炭焼きをしている藤太という朴直な男が住んでいた。京の都から、清水観音のお告げで夫たるべき人が奥州金成にいることを知らされた京の長者の娘(三条右大臣の娘おこや姫の説がある)が、遠く金成まで下ってきた。そして二人は夫婦になり、橘治(橘次)、橘内、橘六という三人の子をもうけた。息子たちは成長し、金田八幡宮の山裾に、東館、南館、西館と屋敷を構えていたという。兄弟は藤原秀衡に仕え、京と奥州を往来する豪商となった、という言い伝えです。
こちらのHPにとても詳しく書かれていました
高倉淳のホームページ 炭焼藤太
最後に
世界遺産平泉のように金や鉛などが産出される場所が多いことは事実なのでその土地の近くで忍者が何かの役割を言いつけられていないかと思うのですが同時に重要機密のはずなので記録がないのかなと思います。同じ「宮城県史」の別地方の収録版には”黒はばき組の横山隼人”と書いてあった部分があったので、別な人でこのパターンを期待しているのですがまだ出てきませんでした。