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郷土史からさぐる黒脛巾組

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郷土史からさぐる黒脛巾組

伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった忍者の集団。本当に書いてあったかシリーズ。

昔書いてある本でどこに本当に書いてあるかを趣味で調べるのは本当に大変。詳しく研究している人の現代語の文献を読むというのがあると思うのですが、それがほとんどない。知られているのは10個ぐらいやっとあるかないかで、狭いといえば狭いしもしかしたらもっと知られていないものがあるのかもしれない。

ということで、安部安定の誤りではないか。と書いてあった部分(安部對馬重定と黒脛巾組)で分かったものから芋づる式で辿ることにします。こちらもまだ未完成。おいおい順番にやります。

・鈴木節夫氏の他の文献
・仙台郷土研究4巻8号
・細作の組織
・信達民譚集
・まとめ

 

鈴木節夫氏の他の文献

こちらから見たところ15件ヒット。時期は、1934年~1946年の間。

昨日の、誤記ではないかという指摘は、その中の「黒脛巾組、その他(戦闘用語、銃砲など)」1934年に仙台郷土研究会誌の中に書かれている。この文献については前に見にいったので、本当に書いてありました。図書館のはリンクを押してもPDFにならないので、図書館に行けば見られるのだが休館中なので今度見に行くリストに入れておく。今ちょうどこういう時に行きたいんだけど仕方ない。なお、「鈴木節夫君を偲ぶ」と、伊東信雄氏が1961年に書いているので、この寄稿を見たら鈴木氏がどんな方だったのかわかるであろう。これも見ておきたいところ。

 

仙台郷土研究4巻8号

10ページにわたり記載のある数少ない貴重な史料。昭和9年8月。伊達秘鑑の同じ部分からの解釈として、"黒脛巾組"の隊員の資格は屈強な、そして武伎にも熟達した「百姓」でなければならなかった。(中略)彼らは軍隊の誘(?漢字が?)導や小荷駄の管理を仕事とした「今時の組抜」のやうなものであり、彼らが組織されてゐた地方の老練な武人がその統領であった。と書かれている。

百姓・組抜・老練が黒脛巾組を考える上でポイントになるかもしれません。

くみぬけ」を探していたら下に「くろはばきぐみ」があった。w

凡下(足軽以下)身分待遇。金品の献上、造作、労役、特技、 善行等によって特に功のあった庶民に与えられた。このほか落度等で士分 などから外された家臣や、特別の事情で百姓や町人に取り移った者へ救済措置 として与えられた。「其ノ身一生」と「永代(えいだい)」があった。 格・並は一ランク下位。

ー近世文書用語解説より

細作の組織

伊達家の細作の行動の部分として、場所の名前が出てくるのが、来夢山観音寺(福島県伊達郡森江野村徳江)とありました。

細作(さいさく)とは、忍びの者。間物(かんじゃ)。-goo辞書

福島県伊達郡森江野村徳江の住所は、今は合併などで変更、見てみたところ、森江野村(もりえのむら)は福島県伊達郡にあった村で現在の国見町南部にあたるそうです。おそらくその観音寺というのは、ここではないでしょうか。

 

信達民譚集

その観音寺の件はこれに書いてあるようです。いろいろ探してみたら、以前別件で文献をオンライン取り寄せした佐藤氏が「信達民譚集」について書いたものもあるようでした。別件というのは、"黒脛巾組の大林坊俊海と似ている名前の常林坊海尊について、調べてみたことがあったのでした。(忍者とは関係がなかった)

近藤喜一「信達民譚集」を読む
近藤喜一氏は民俗学者・柳田国男との交流が想像され、信達民譚集は柳田国男の『炉辺叢書』の中の一冊になっている。福島県伊達郡桑折町出身。

 

まとめ

当時のことが書かれているのであれば宮城よりも現場の福島県に史料が残っているように感じるので昭和初期~中期ぐらいに書かれた郷土史家の著作にあたっていこうと思う。今全然知らないので、出てきた名前でリストを作っておいて、図書館が開いたら行ってみよう。

今度読むリスト
・鈴木節夫氏の他の15文献
・近藤喜一「信達民譚集」
・伊東信雄「鈴木節夫君を偲ぶ」

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