伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった忍者の集団を調べています。今日は参考史料を調べていく回です。
・何の本の参考史料か
・刈田郡誌とは
・書いてあったこと
・まとめ
何の本の参考史料か
飯田勝彦氏の著作で、仙台のあづま書房から1985年2月に出た「伊達軍団の弓取りたち」の参考史料でした。
阿部安定について、わかるかもしれないと思って見ていきます。
刈田郡誌 とは
昭和3年に松華翁 亘理晋によって書かれたもののようです。
あまりわからなかったけれども亘理晋 氏については、「亘理家の先祖は出羽三山の修験者。片倉小十郎景綱に従って戦場往来、初代大僧都法印清昭から徳川三百年を白石市亘理町(現町名)に居住、片倉家の客臣格で修験道場千手院を運営してきた。」とあります。
また、こちらからは、「亘理晋は、前述の如く、東洋の下で医師として訓育を受けた後、永く東京にとどまるようにとの恩師のすすめもあり、自分もそのことを希望したかもしれないが、郷里及び実家の懇望もだし難く、白石に帰って、亘理医院を開設した。時に明治 13 年」と書いてあり、医師だったことがわかります。
いずれも、それぞれのリンクに詳しく記載がありました。
今回、刈田郡誌については国会図書館のデジタルコレクションでPDF化されていたので、それを確認しました。全222頁で今日はちょっと読み切れず、第3章まで。次は34頁から読もう。
書いてあったこと
第1章~第3章までの目次の項目は、刈田郡について、先住民族、刈田郡の建置 まで。
まとめ
今回は第3章までしか読んでいないので、まだまだ戦国時代にたどり着かない。しばらく読み進めようと思います。