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横山隼人と柳生心眼流

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横山隼人と柳生心眼流

伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった仙台の忍者の集団を調べています。今日は横山隼人について考えてみます。

・横山隼人とは
・書いてある文献
・柳生心眼流
・まとめ

 

横山隼人とは

本吉南方組頭。
老人傅聞記に、『貞山様の御代、「黒脛巾組」といって百姓共の内、力量・打物(武術)にすぐれた者を選び、五〇人、三〇人を一組とし、案内・悪党の忍入りたる者の探索・兵糧・廻米・御陣具・竹木の運搬をさせた。これらは今時の組抜の様な者で、皮脚絆をはき、土地の古人の武辺を組頭にしている。』とある。

仙台藩大番士と老人伝聞記

また各地域の組頭については別項目に書かれている。横山隼人は本吉南方の組頭ということになる。
(南→阿部対馬、北→清水沢杢兵衛、佐沼→逸物惣右衛門、石巻→佐々木左近、本吉南方→横山隼人、本吉北方・気仙郡→気仙沼左近。)

 

書いてある文献

以下の情報はすべてこちらからのもの。
よろづライブラリー さんのブログ

宮城県本吉郡津山町 の「津山町史」資料編Ⅰに、さきの史料にあげられた「本吉南方」の組頭「横山隼人」に関する記述があります。

この記録は江戸時代の安永年間(1772~1780)、伊達家が 地誌編纂のため領内の各村に村の様子を仔細に報告させた統計的報告書で、 今日の国勢調査のようなものです。歴代の百姓18人の名称など項目ごとの 総論に続き、各論として横山村筆頭の大肝煎11代相続、大森清助の次に、 10代相続、肝入春藏方の事として次のように記載されています。

【二代 薩摩子 肝入 隼 人
右隼人義慶長年中(1596~1614)当村肝入被仰渡候 貞山様(伊達政宗)御代黒はゝき組ト申所々御取合之節奉御奉公御用立申候由ニ 御座候其節御書付等茂奉頂戴候由ニ候処正保二年(1645)類焼之折焼失仕候寛永 年中(1624~1643)江刺伊沢岩井三郡ヨリ気仙郡江御廻米〆リ御用被仰渡相勤御 伝馬四匹被借下御黒印等所持仕候処何並焼失仕候由当時御黒印 計所持仕居申候事】

つまり
仙台藩の場合、こうした肝入制度は寛永 17年(1640)の領内総検地以降に発足したが慶長年中(1596~1614)に肝入に任じられた ということは、単に地域の世話役、監視役にとどまらず、旧葛西領に目を配る一ランク上の重要な役割だったのではないかと書かれています。

その他、歴史小説の中ですが、「真田大戦記 七 下 慶長元和の激戦」という作品の中に、横山隼人が登場します。

柳生心眼流

柳生心眼流の祖竹永隼人も黒脛巾組の一員だったとされています。武芸に心得があった彼は江戸で柳生宗矩に師事し、新陰流の免許皆伝を得て、やがて心眼流を開き、伊達藩士に稽古をつけるなどしました。

歴史じっくり紀行公式ブログ さんより

柳生心眼流の稽古は現在でも行われていて、忍者活動仲間が何年も通って修行しています。

日本古武道協会・柳生心眼流甲冑兵法

まとめ

横山隼人と竹永隼人が同一と書いているものもあるが出典がはっきりわからない。この部分は今後見ていきたい部分です。

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