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宇和島伊達藩:桜田玄蕃

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宇和島伊達藩:桜田玄蕃

伊達政宗の諜報部隊とされている。足の脛(すね)に黒の革脚絆を巻いていたことからそれを組の印として、黒脛巾組と呼ばれるようになった仙台の忍者の集団を調べています。今日は昨日少し考えた部分からの続きで、鹿股戸兵衛からの桜田玄蕃について調べるため、ネットから見られる範囲で資料を読んでいます。

・桜田玄蕃
・旅日和サイト
・鹿股戸兵衛のつながりは
・まとめ

桜田玄蕃

昨日、愛媛県史の部分から桜田玄蕃についての記述を読んだ。

宇和島伊達藩:愛媛県史 近世(上)①

もう少しイメージが描けるように今日は調べていこうと思う。

和霊騒動という事件があった。1620年、「五十七騎」で仙台から宇和島へ赴いた中の筆頭家老、山家公頼(清兵衛)が対立していた桜田元親に和霊神社で襲撃され一族皆殺しとなった事件である。いろいろ見てみたら、桜田元親と桜田玄蕃は、同じ人のようだ。

財政が厳しかった時に大阪城の石垣修復などで藩の運営を巡り家老山家清兵衛と桜田玄蕃が対立、政宗に信頼されていたのは山家清兵衛のため、秀宗は山家清兵衛を疎ましがって桜田玄蕃を重用。和霊騒動の事件は、秀宗の命令で桜田玄蕃一派が襲撃したと言われているが、秀宗はこの事件を父親に報告せず、激怒され勘当されることになった。

以下、箇条書きで別な情報を追記。

・桜田元親(1575~1632)
・桜田玄蕃は老職兼侍大将として、軍事一切を担当する事となります。一方、軍事以外の惣奉行として、山家公頼(やんべきみより)が筆頭家老として政宗より付けられた。
・伊達政宗(だてまさむね)の家臣で、陸奥宇多郡駒ヶ峰城主。※福島県相馬郡新地町駒ケ嶺
・慶長5年(1600)に、政宗が上杉領に侵攻する際に、旧領であった川俣城を攻略する武功を挙げている。
・寛永9年(1632)8月6日没

以上、ぬるま湯に浸かった状態さん ブログから引用

 

旅日和サイトから

この「伊達政宗の子孫が守った「宇和島城」の歴史」の中に、はじめの大きな流れについて、わかりやすく書いてあった。

主な部分を要約すると、
政宗の長男だった秀宗が宇和島へ、次男の忠宗が仙台に残った理由についても、徳川氏の時代になったことが影響していて政宗が別家を興すことを考えたこと、大坂冬の陣で徳川家から伊予宇和島10万石が与えられたことで、秀宗が宇和島藩の初代藩主となり、家臣団の中の多くは政宗が伊達の家中から選んだ者で、秀宗が入部した際には57騎騎馬団のほか足軽と小者を合わせて約1200名をつけたとされていた。

 

鹿股戸兵衛のつながりは

桜田玄蕃は老職兼侍大将として、軍事一切を担当したので武術の人だ。政宗の信用が厚かったのは山家公頼。秀宗は山家公頼を殺害する命令を出す位だからかなり対立していたと思われる。鹿股戸兵衛は桜田玄蕃に養育されていたので、秀宗側に近いのでは? 宇和島にまで行ったのか、駒ヶ峰城主(福島)時代に養育されたのか、不明だが大阪の陣で活躍した報酬で鈎取に知行地を与えられていたのは政宗の次男の忠宗にもらっている。宇和島藩側の情報も桜田玄蕃つながりで見ていけば出てくるかもしれない。そして「鹿股戸兵衛は播磨守十六代の孫」だった。播磨・・・関係があるのだろうか。

まとめ

今回いろいろなサイトから桜田玄蕃について少しわかったことが増えた。しかし、昔の人は日本全国遠いところまで行ったのだなと思う。また別な部分からも調べていってみよう。

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